1996年2月5日、私は仲間達YとS(女性2人)と関西空港からタイのバンコクへ旅立った。当時、私はベトナムの研究をしており、ベトナムの論文を書くつもりだった。そこで、参考文献を読み漁るより、現地で取材したほうが早いといういいかげんな理由から、旅行を思い立ったのだ。仲間達はもっと純粋な気持ちで旅行していたのだが、私は適当な性格なので(このことが後々役立つこととなる)「行ってしまえば何かが得られるだろう」という単純な動機で、現地行きを決めたのだった。
2月5日 バンコクに着く前に、韓国のソウルによる。格安航空券のため、大韓航空を利用。格安だがサービスは良かった。「カムサハムニダ(ありがとうございます)」私の片言の韓国語にもスチュワーデスはにこやかに答えてくれる(スケベ根性丸出しです)絶対に相手の言葉に合わせて会話した方が仲良く成れます。
バンコクについてから、税関のチェックを受ける「Are you a man or woman?(あなたは男ですか、女ですか?)」最初は何を聞かれているかわからなかったが、そんなことを聞かれた。私は正真正銘男である。ちょっと見た目がオカマっぽいので、係官におちょくられたらしい。思わず苦笑した。「先が思いやられる...。」
女性2人と旅をしているので「こいつ怪しいやつ」「何!なんてふしだら、でも、うらやましい!」と思われた読者もおられるかも知れません。誤解を与えないように言っておきますが、この二人とは純粋に研究のために連れ添っただけです。兄弟みたいな感覚で異性という感覚はまったく(もし、二人が読んでたら殴られそう(笑)ありませんでした。よって、読者の期待するような甘い夜は、この手記には出てきません(残念!)
バンコクで男か女か聞かれたのも、女性二人と連れ添っていたからかもしれません。と言うか私のほうが二人よりも美人...以下自主規制(2人に殺される(笑))実際この二人から私は「姫」と呼ばれておちょくられていました。
2月6日
ベトナムのビザをバンコク市内(画像1)で申請。カンボジア行きの飛行機チケットを買いに行った。さくら銀行バンコク支店でお金の両替をする。あとデパートにも行く。
バンコクは、今回の旅のベースキャンプ的に立ち寄っただけで、目的地ではない。Yはカンボジアとタイ、カンボジアの国境周辺、タイ北部の遺跡、Sはタイ北部とベトナム中部の遺跡、私はベトナムの都市部見学が主な目的地だった。
デパートは品揃えが豊富で、日本のそれとまるで変わらない。目玉商品はワゴンセールされているところなんか日本そっくりである。でも、売り場フロアの配置が何か変。2階3階4階連続で靴売り場とは...。バンコク市民はそんなに靴が好きなのか?でも道に歩く人々は皆、サンダルだった(靴は蒸れるから人気がないようだ)
2月7日前編
ナコンラーチャシーマ(タイ北部の街)まで列車で向かう。列車はディーゼル車だった。
駅に着いた。あまり大きな街ではなく、ちょっと田舎。とはいってもバンコクが巨大すぎるからそう思うだけなのだが....。3人で今日の宿屋を探す(電波少年のように!)
東京ホテルというホテルを発見!日本らしき名前に親しみを覚え、はいって見る。いきなりニヤニヤした、受付の男性が現れた(あ、怪しい...)どうやら男女3人の我々にいやらしい妄想をしているようだった。そんなことはないのに...彼に宿代を聞くと、相変わらずニヤついた顔で「240バーツ(約1000円)」と答えた。「高すぎる!」我々は即答した。日本では3人部屋で1000円ならば安いかもしれないが....。値段が下がらないので、よそのホテルに行くことにした。(このことが後の悲劇に....)
ほかにホテルはほとんどなく、あっても5000円もする、超高級ホテル(←我々にとっては)
しかなかった。仕方がない.....。東京ホテルに戻るか...。
2月7日後編
仕方なく、東京ホテルまで戻ってきた。受付の男性がまたもや、ニヤニヤしながら登場。
本当に、この男性は怪しげである。今度のニヤつきは「ホラ見ろ!ここより安いホテルなんて、ねーよ!バーカ!」という感じに見えた(被害妄想)
しかし、あながちその妄想は外れてはいなかった。怪しい受付の男はこう言い放ったのだ。「一晩、250バーツだ。」
さっきは、240バーツと言ったはずである。このことに、同行者のYが猛然と抗議した。Yはアメリカンイングリッシュが相当うまい。日系アメリカ人といっても通用しそうな発音である。今でいうなら、宇多田ヒカルのような英語である。「おかしいよ、さっき240バーツって言ったじゃん!」しかし、受付の男は慣れているのか少しも動じる気配はない。「250バーツ」相変わらず怪しげな笑みを浮かべている。私も丁寧にやさしくこういった「さっき、240バーツっていいませんでした?なんで、値段が上がるの?」
Sも不満そうに「うそつき!」と悪態をついている。すると、受付の男は、さらに、ニヤつきながらこう言い放った。「そんなことはいってない。さっき来たときも250バーツと言ったはずだ。いやなら、よそに行ったらどうだ。」
完敗である。このホテルより安いところがないと言うことを、知り尽くしたような態度である。しかも、値段を上げても、それが当然と言う顔をしている。我々は相談した結果、ここに泊まることにした。
係りの女性に、部屋に案内されたがそこは、5階だった。この女性も、我々を見て、嬉恥ずかしい妄想を抱いているようだった。「フィアンセですか?」と聞いてきたので。「兄弟です。」と冷たく言い放った。それでも、女性従業員は納得しない様子で、相変わらずニヤついていた。
このホテルにはエレベーターなどと言う、物はなく、我々のような多くの荷物を抱えている旅行者にはこたえた。我々は一月分の荷物を抱えているのだから。部屋にはいってベッドを確認する。これはめくりめく夜の楽しみのためではけしてなく、ベッドの大きさを見るためだ。そこにはベッドが2つしかない。ツインルームって奴だ。そこで、一組は添い寝で....というのは勿論うそで、エキストラベッドを一台持ってきてもらった。
私は率先してエキストラベッドを選んだ。私の方が劣悪な寝床でも安眠できると思ったのだ。一応、レディに対する配慮は心得ている。
そして、夕飯はホテルの前の屋台でタイの麺をテイクアウトして、部屋で食べた。みんなで悪態をつきながら「なんで、タイはこんなに怖いんだ。」「値段を上げるなんて許せない。」「人の足元見やがって。」でも、タイの辛い麺料理の味はおいしかった。
2月8日前編
色々あったナコンラーチャシーマを後にしてピマーイまで行く。バスに揺られてえんえんと走り続けた。バスを2台乗り継ぎ合計20バーツ(約80円)かかった。日本の感覚から行くとかなり安い。京都市バスもこれくらい安ければいいのに....(←無理!)
ピマーイというところには遺跡がある。(画像2)ここの遺跡はカンボジアのアンコール遺跡を創る実験場として作られた寺院だと聴いている。私はあまり詳しくないが、クメール様式で創られた建築物だそうだ。
ピマーイに着いたが、今夜の宿が確保できていない。バス停の周りには食料品店などはあるもののホテルらしきものは見当たらない。路頭に迷っていると一人のおばさんが声をかけてきた。警戒心の抜けない我々をよそに、おばさんは、自分がOld
Guest Houseを経営しているのでそこに泊まらないか?と誘ってきた。おばさんはやさしい表情をしていて、悪人には見えない。
多少警戒しつつも、泊まるところの無い我々はおばさんを信用し付いて行くことにした。歩いて1、2分のところにOld Guest Houseはあった。安い宿のようだが、少し気にかかるところがあった。どうやら、この建物は昔は診療所として使われていたらしい。ということはここで一人や二人はお亡くなりに....。ちょっと怖かったが、我々は幽霊など信じないので、泊まる事にした。
落ち着いて町を見渡すと、個の町には緊張感はまったく無い。いたって平和な町のようだ。都会の緊張感はここにはなく、外で昼寝できるほどのどかな町だ。
2月9日
タイ国立博物館に行った。ピマーイ遺跡やクメール様式についてちょっとわかった。彫刻のデザインが艶かしい感じだ。なにか、全体的にぬめぬめした感じの丸みをおびたデザインなのである。当たり前だが西洋のデザインとはまるで違う。日本人の私はいうまでも無くアジア人なのだが、西洋のデザインを見慣れてしまっている。西洋のデザインは独断で述べるなら、すっきりさわやかって感じ。でも、クメールのデザインは、湿っていて生命力みなぎるどろどろしたデザイン。(ほめているのです)
サインガーム公園というところには大きな菩提樹(画像3)があった。(仏様がこの木の下で悟りを開いたという伝説がある。勿論それはインドにある菩提樹でここの菩提樹ではないが。)
凄く大きな木で自然の大きな生命力を感じることができた。
夜にはゲストハウスの人に連れられて祭りを見に行った。なんか日本の夏祭りを思わせるムードだった。ライブで音楽が大音響で流れている。流れている曲には有名曲をパクッた(失礼)ものもあった。「天使にラブソングを」という映画の主題歌にそっくりな曲にはY、S、私で顔を見合わせて笑ってしまった。タイ独特の音楽はなにか日本の演歌を思わせる哀愁が混じっており、有名曲をコピー(失敬)したものよりも、なにか伝わるものがあった。
祭り会場には、ムエタイ(タイ式キックボクシング)の特設リングが設けられていた。正確なムエタイの発音は「ムァイタイ」と言う風に聞こえた。私は空手をやっているので、なかなか、楽しんで見ることができたが、YとSは乙女なのでエキサイトしているようで、多少「残酷」と思っていたはずだ。二人はちょっとひいた感じに見えた。ムエタイには小さな子供も参加していて大人顔負けのキックを繰り出していた。こんな小さな(多分7,8歳)からムエタイをやっているんだから、強くなるわけです。その夜は興奮してなかなか寝付けなかった。
2月10日
市場を見に行った。特に何か買うわけでもなく、見に行きたかったからだ。私は、初めて行く場所でも、必ず市場は見ることにしている。その場の、日常風景が一番よく現われるのが市場だからだ。私は、観光名所よりも、こんな生活現場を見るのが好きである。
そこで、面白い物を見つけた。果物だ。日本では見たことのない果物だったが、買ってみた。紫色の柿みたいな果物は、ぶどうのような味だった。勿論、ゲストハウスの冷蔵庫を
借りて冷やして食べました。(店先で売っているのは、冷やしていない)
その他に、スパイスから、衣料品まで何でも売っていた。買わなかったのだが、衣料の
品質の確かさに目を奪われた。針の縫い目がきれいなのだ。
日本で最近話題の、某有名安売り衣料品店は中国に工場を持っているようですが、
品質の面ではタイ製の方が上ですね。私が店を出すとしたら、タイから輸入しますね。
値段も激安ですし。(このことはみんなには秘密です。私が輸入してお金をもうけたいので
(笑))
シャツが50-160バーツ(200円から、650円)で買えるのですから笑いが止まりません。
買ってませんが....
今回の旅行は、地域別に言語を勉強してから行った。Sさんはベトナム、Yさんはカンボジア、私はタイ語担当だった。勿論、いずれの国の挨拶などは、皆勉強したが、買い物などは、役割を分担して勉強したほうが、効率的と二人から言われたからである。
おかげで、私のタイ語での買い物は、より楽しいものになった。
2月11日
ピマーイを出て、コラート経由でバンコクへ向かう。次の目的地カンボジアに向かうためである。カンボジアに向かうには、陸路や、川を船で行くなど複数、方法がある。
我々は、陸路や川路は遠慮しようと思った。なぜなら、治安の問題があるからである。
山賊に身包みはがれるのはごめんだ。(ギャグではなく本当に山賊がいるらしい)
ピマーイからバスに乗り込んだ、バスは相当スピードを出して走っていた。私は景色なども見ずに寝て行く事にした。SさんYさんは旅行のプランを話しているようだったが、私は今後のことを考えて、体力回復に努めた。(ただ、寝ている私に非難の目が向けられていたような...あの時はごめんなさい)
バンコクのバスターミナルに着いた(速っ!寝ていたので....)バスターミナルから、タクシー
でManhora Hotelに向かった。このとき我々は、中国人観光客と偽ってタクシーに乗った。
我々はスパイだから、では無く(笑)、日本人と悟られるとボッタクられるからである。
タイ航空でバンコクからカンボジアのプノンペンに向かう。タイ航空の機内で軽食が出された。その軽食はとてもおいしく、○本航空のそれよりも豪華だった。しかも、航空券の値段も安い。
プノンペンに降り立ち、税関を通る、緊張する瞬間だ(とはいっても別に犯罪を犯しているわけではないので緊張する必要はないのだが)
今回の旅行では税関の係官からヘンなことを言われ続けている。簡単に税関の検査をうけ、ここでは何事も無く通過と思っているとまた、係官に呼び止められた。
さては、薬物でも見つかったのか(持ってません!)それで不当な賄賂を払う羽目になるのか(偏見)色々と考えたが、係官から言われた言葉は意外なものだった。"You are handsome!"っておい、ハンサムといわれるのはうれしいが、呼び止めてまで言う言葉か!こっちは、不法入国がばれたのかと(していません)びくびくするやんか!まあ、女性と間違われなかっただけでもよしとしましょう。
空港を出ると、入国者を待つタクシーの運転手やら、物を売りにくる人が、ゲートの前に押し寄せている。その様子はちょっと怖かった。信用できそうな(顔が怖くない)タクシー運転手のタクシーに乗り、ホテルに向かう。シンガポールホテルという、ホテルに来た。どうやら、華僑(中国人)が経営しているらしくホテルの一階は中華レストランになっていた。
銀行でUSドルからカンボジアの通貨リエルに両替。タクシー(ここではバイク)に乗ってVictory monumentを見て、ロイヤルエアーカンボッジ(航空会社)でシェムリアップ(アンコールワットなどがある)までの航空券を買う。
そしてツールスレーン博物館に行った。この博物館はカンボジアをクメールルージュ(ポルポト派)が支配していたときに、強制収容所として使われていた建物である。収容所になる前は学校だったそうだ。なるほど建物のつくりは完全に校舎である。しかし、建物に入ると恐ろしい光景が目の前に広がった。
ポルポト派は罪もない人々、とりわけ教養のある学者や技術者を捕らえこの収容所に監禁した。監禁とはいっても実質つかまることは死を意味する。元教室は監獄となり、収容者は粗末な食べ物を与えられ、連日暴行を受けたようだ。
なぜかポルポト派は収容者の写真をとっていた。現在は博物館になっている教室には収容者の写真が壁に貼られていた。ここで何が行われたのか記録するためである。写真は壁一面に貼られている。それほどおびただしい人々がここに収容され、死んでいったのである。
ある部屋にはおびただしい頭蓋骨や収容者の着ていた服の一部が展示されており、見て回るだけで鬱な気持ちになってくる。ここでこんな恐ろしいことが行われていたと思うと、気分が悪くなってきた。でも一番恐ろしかったのは、その空間にいると「残酷」だという感覚が麻痺して何も感じなくなっていくことだ。そんな感情麻痺状態に自分を持っていかないと、自我が耐えられない。そんな麻痺状態になっていく自分が一番恐ろしかった。
ここで思ったことは、いわゆる幽霊は存在しないということだ。ここにいた人たちは、みな無念の思いで死んでいったはずだが、その空間にはなにもない。私は細やかな神経の持ち主だが幽霊の存在は感じなかった。残虐行為が行われたという記録のみが無感情に展示されていた。そこにはかわいそうだとか、むごいといった感情だけでは説明できない現実があった
プノンペンからシェムリアップ(アンコール遺跡のある地域)に来た。ここまで来るのには高速ボートで川を上る方法が一番安いのだが、それはやめておいた。川の山賊が出るかもしれないからだ。それと高速ボートの乗りごこちは悪く、尻が痛くなってしまうらしい。
我々はプロペラ機でここまでやってきた。小さな古いプロペラ機の乗り心地も、お世辞にもいいとはいえないが、空路なら危険は少ない。地対空ミサイルや、高射砲の攻撃などはまずない。
アンコール遺跡群で最初に見たのはプノンバケーという小高い丘だった。階段を上って丘の上まで行くのだがそこには日本語が非常に達者なクメールの子供達がいた。彼らは日本語学校に行っているわけではなく、日本人と触れ合ううちに自然に日本語を覚えたそうだ。凄く柔軟な頭脳の持ち主である。
子供達が、あまりにも調子のいい日本語で話し掛けてくるので、最初は物を売りつけるのが目的かと思った。「お姉さんきれいですね!」とか「お兄さんかっこいい」とお世辞ばかりいうのだから。でも彼らは物を売ることが目的ではなく、純粋に観光外国人とのふれあいを楽しんでいるようだった。
それにしても、アンコール遺跡の周りには、思った以上に日本人が多い。大阪のおばちゃんの団体が「暑いなあ、ほんまに...」を連呼して歩いているさまは、まるで道頓堀を歩いているようだった(誇張)
その夜は、Yさんの希望でホテルの宴会場に潜入、もとい交渉して入らしてもらい、アプサラダンス(天女の踊り)を見た。普通ならお金を払ってみなければならないところだろうが、最後列から見る分には無料でいいらしい。実際地元の人も見物に来ていて、しきりに我々にダンスの説明をしてくれた。
残念ながら、我々のクメール語能力は低く、ぜんぜんわからないのだが、雰囲気は伝わってきた。ダンスの幻想的な様子と、地元の人のあたたかい心が感動的な夜だった。
アンコールワットで日の出を見るために早起きした。アンコールワットに着いた時は、まだ周囲が薄暗く何も見えない。だんだんと空が明るくなると、周囲の景色がだんだんと見えてくる。遺跡のシルエットが紫色の空にくっきりと浮かび上がってきた。
そして太陽が姿をあらわした。朝日が照らし出すアンコールワットの景色は、まるでこの世のものとは思えない神秘的な姿だった。私はYさん、Sさんに、冗談で、アンコールワットは建立当時は全部が黄金でできていたのかもしれないと言った。黄金に輝くアンコールワットを想像させるくらい美しいながめだ。
日本の最近のテレビ番組で、アンコールワット建立当時の想像図を放映していた。その想像図は本当に黄金に輝いていたのをみて驚かされた。勿論、遺跡本体が黄金でできているわけではなく、金拍のようなもので表面を覆っていたようですが。
太陽もすっかり顔を出し、明るくなった遺跡を見学した。ガルーダ(神鳥)やガジャシンハ(獅子)の彫刻は見ごたえがある。独特のフォルムをしていて、とても個性的だった。
2月16日
アンコールワットの第二回廊を見学。遺跡のいたるところにアプサラ(天女)の彫刻が見られる。天女が空中を浮遊しながら美しく神秘的な踊りを踊っている様子が壁に彫刻されている。天女の動きを現世に再現したのがアプサラダンスである。
遺跡の近くの市場で昼ごはんを食べたあと、タプロムという遺跡を見た。この遺跡は、森に飲み込まれつつある。このまま放置しておくと、森に飲み込まれて跡形もなくなってしまうであろう。早急に人間の手の補修が必要だ。私は不謹慎にも、森に飲み込まれる遺跡も美しいと感じた。「天空の城ラピュタ」というアニメを思い出した。文明も自然には勝てない。自然が人間に逆襲しているのだ。
遺跡も見終わり、ゲストハウスに帰る車に乗っているとき、事件がおきた。道をゆっくりと進む車の前に一人の老人が立ちふさがったのだ。当然車は停車した。運転手と老人は口論を始める。クメール語なので、話の内容はわからないが喧嘩していることぐらいはわかる。
なにやら「この車に俺も乗せろ」「駄目だ、乗せられない」といった感じのやり取りが行われてるようだった。私は特に身の危険も感じなかったのでその様子を静観した。運転手に任せていればいいと思っていた。なぜならその老人は弱弱しく、我々に危害を与えることはできないと思ったからである。ここは下手に動くよりも、様子をうかがい本当に危険になれば喧嘩を仲裁しようと考えた。運転手を信頼していたからである。
しかし、この車には私だけでなく、カンボジアで知り合った日本人男性二人とYさん、Sさんも乗っている。女性であるYさん、Sさんは身の危険を特に感じたはずだ。私はみんなを安心させるために一言かけるべきだった。「大丈夫!じっとして!」と。
老人があまりにもしつこく喧嘩を続けるので、私以外の男性二人が止めに車外にでた。老人を羽交い絞めにして引き剥がして、ようやく喧嘩は終わっったようだ。私はその様子を静観していたのだが、この様子がYさん、Sさんに不安を与えたように思う。
「KGは何もできない腰抜け」というレッテルが貼られたような気がした。二人の日本人旅行者のほうが頼りになる。
心なしか、私に対するみんなの視線がこの日を境に冷たく感じたのは私の思い過ごしでしょうか?やばいです。
その後車外に見えた「Mine Fields Studio」という店名の建物にショックを受けた私はさらに鬱になった。クメール人は地雷を憎んでいるわけではないのか?クメール人は自分たちの不幸さえも乾いた笑いにしてごまかしているのだろうか?
2月16日の夜
老人の突然の襲撃事件のほとぼりが残りながら、我々はゲストハウスの外で話をしていた。私は疲れたので先に部屋に戻って休むことにした。YさんとSさん、日本人男性2人は話が盛り上がっており、もう少し話してから部屋に戻るということだった。
私は「みんな早めに部屋に戻った方がいいよ、夜は危なそうだから」と言い残して部屋に帰った。
これは、決してやきもちでそういったのではなく、夜は危険だと思ったからだ。
私は、部屋に入って寝転びながら、YさんとSさんが戻るのを待った。
大分夜も更けてきたので、そろそろ部屋に戻ってくると思っていたが、いつまでたっても二人は戻ってこない。心配になった私は、様子を見に行った。
するとなんということもない、4人はまだ楽しく語り合っているようだった。私はちょっとあきれながら不機嫌に「そろそろ部屋に戻ったら?」といった。あとから考えると、この言い方と態度がみんなを不愉快にさせたかもしれない。私は昼間、腰抜けをみんなに露呈していたからだ。
私は、部屋に戻って、こんなことを考えていた。ここはカンボジアなんだ、昼間は比較的安全でも夜になると何があるかわからない。誘拐でもされたらどうするんだ?でも、あの勇敢な日本人男性二人がついているからだいじょうぶか...でも銃を突きつけられたらどうしょうもない。
昼間にアンコール遺跡を見て回ったときに、ギョッとする光景を見ていたから余計に心配になってくる。その光景とは、遺跡の柱にAK47自動小銃が無造作にたてかけてある光景だ。その銃は近くを警備する兵士の持ち物らしいが、子供が銃をうばって乱射したらどうするんだ?おそらく弾は入ったままだ。簡単に他人が銃を奪えるような状況だ。
兵士は、ゲリラや盗賊が観光客に危害を加えないように警備しているつもりなのだろうが、緊張感がまるでない。小銃などにはまったく気を遣わず、笑っていた。
そんな光景を見ていたものだからみんなの身の安全が気にかかる。
YさんやSさんが気になって何度か見に行ったが、変わりがなくみんなで楽しく談笑していた。私はちょっとあきれて部屋に戻った。大丈夫そうだな..心配ない..そう思っているうちに私は寝てしまった。
そして......
どれぐらい寝てしまったのだろうか?突然、窓の外から声がした。寝ぼけ頭で聞いていると、聞き覚えのある声である。「開けて」と日本語で叫んでいるではないか!
私は、一瞬混乱した。何か危険が迫っているのか?
少し頭がハッキリしてきて状況が飲み込めた。なんのことはない、YさんとSさんが、窓の外から叫んでいるのだ。「建物の鍵が閉められてる、ゲストハウスのおばさんが閉めてしまったの、悪いけど、鍵を開けて頂戴!」
私は、かなり寝起きが悪い。寝起きの体の状態は、ひどいものだ。まるで二日酔い(勿論アルコールは一滴も飲んでいなくても...)のようにだるく、頭痛がしていた。
そんな状態だったので、私はひどく不機嫌だった。
「もう、だから言わんこっちゃない!ここはカンボジアなんや!夜中まで外で話すなんて危険すぎる!」私はひどい悪態をついた。ちょっと言いすぎなくらい....
ますます、この旅行に暗雲が垂れ込める。せっかく一緒に計画した旅行仲間に亀裂が生じた。
今になって考えると、私はそんなことぐらいで怒るなんてちょっと行き過ぎだった。旅行のストレスと、見知らぬ男性に、女友達を奪われた(奪われたというのは言いすぎだが...)の嫉妬から、気が立っていたのだろう。
朝の目覚めは悪く、ちょっと体調を崩してしまった。(虚弱.....)
2月17日
午前中は市場に行った。そこでクローマーと呼ばれる、布を買った。クローマーはカンボジアの伝統織物で、マフラーのように使ったり、風呂敷のように使ったりと何にでも使えるようだ。
午後にアプサラダンス(天女の舞)のダンサー達の楽屋見学に行く。この楽屋に入らせてもらえたのは本当に幸運だった。おそらく普通の旅行では簡単には来られないのでは?
そこでは、ダンスの稽古が行われていたり、衣装合わせが行われているようだった。
男性ダンサーの二人が、「私の写真をとってよ」と私に言った。偏見かもしれないが男性ダンサーはなぜかおかまぽっかった。ダンスのような繊細な芸術をたしなむと、なぜか男性も女性のようにしなやかになるのではないか?
ダンスの衣装や、小道具の装飾はとても美しく、すばらしかった。近くで見せてもらえたのは本当に幸運だった。
2月18日
今日から、Yさんとは別行動になる。Yさんはカンボジアの研究をしており、もっと長期滞在する必要があったからだ。私とSさんはベトナムの研究をするために、カンボジアを後にしなければならない。
朝にYさんと、後日タイで落ち合う約束をした。ゲストハウスを離れて、空港に向かった。
まずはプノンペンにもどらねければ。
空港では面白いアクシデントが起きた。予約していた飛行機が一時間ほど遅れて離陸するとロイヤルエアーカンボッジの係員に告げられた。そのお詫びということで待っている乗客に缶ジュースが配られた。スプライトやコーラだ。
いかにもカンボジアらしいのどかな待ち時間を楽しんだ。
飛行機はすぐプノンペンに着いた。バイクタクシーで宿まで行ってもらう。Sさんが事前に調べてくれていたので。スムーズに宿は見つかった。Captol1というところだ。Capitol2というところも近くにあるのだが、宿情報によると劣悪な環境らしいので遠慮しておいた。
Capitol1でも相部屋の方が安いので、その場でたまたま出会った日本人と一緒に部屋を借りた。3人部屋である。
その後私は、記念のTシャツとバナナ味のクリーム入りビスケットを買った。
2月19日
昨日一緒に泊まった日本人男性は我々二人と一緒の部屋にいるのが
気まずくなったのか部屋を去った。
とはいっても私とSさんが怪しい関係になったのではないです。誤解のないように。
この日の私の体調は最悪だった。おなかの調子を崩したのだ。こう書くとほとんどの人は
「あっ!下痢か?」と思うかもしれないが、前衛的な私なので(?)便秘になったのだ。
私は緊張すると便秘になってしまう体質なのである。海外旅行は私を緊張状態にしていたのだ。見た目はそうでなくとも・・・・・
とは言っても部屋で寝ているわけにもいかない。次の目的地ベトナムに行く航空券を買わねば。私は便秘になると微熱が出てめまいがする。そんな悪条件だがSさんを困らせるわけにはいかない。
博物館にも行ってクメールの彫刻なども見たが、あまりゆっくり見られなかった。
最悪な体調が直らないからである。
部屋に戻って考えた。水道水をそのまま飲めば下痢になって治るのでは?
プノンペンの水道水をそのまま飲むことは現地の人でもしない。
おなかを壊すからだ。だがそうはならなかった。
結局、薬局に薬を買いに行くことにした。Sさんに迷惑がかからないように自分で行くことにした。中国語と英語で「私は便秘です、気分が悪いです。便秘薬を下さい」とメモを書いた。
ゲストハウスの前にある薬局の店員の顔つきが中国系だったので中国語が分るのでは?と思ったからである。ちなみに便秘という単語"constipation"というのはこのとき初めて知った。
薬局でメモを見せながら、英語と中国語で店員に呼びかけた。
店員は笑顔で「便秘?大変だね。ところで君はどっから来たの?」と答えた。
おいおいこっちは青い顔で問い掛けてるのに・・・・
店員は「へー?日本から来たの?すごいね」などとずっと話し掛けてくる。
こっちは倒れそうなんだよ!とはいっても店員さんに悪気があるわけではないので怒らなかったというか怒れなかった。本当に私自身が便秘で苦しんでいるのを理解してくれているのか?
なんとか薬を手に入れた私は薬を飲んで休んだ。その後、薬が効いて私の体調は治った。あーよかった。言葉が通じて適切な薬を買えたらしい。
プノンペンを離れベトナムのホーチミンに来た。ベトナム入国の際に私のミスでかなりSさんに迷惑をかけてしまった。飛行機内でくばられる入国審査の紙をなくしてしまったのだ。うろたえながら税関係員に「紙をなくしたんですが・・・」というと、怖い顔でにらまれ「あっちに紙があるからもう一度書いてこい!」と叱責された。「そこをなんとか・・・紙なしでええやん?」と言っても係員は「却下!」と言った。その状況をみてSさんは係員より怖い形相(一部誇張)でこちらをにらんでいた。
「はよせいっちゅうねん(←そんなことはいってませんが)」
なんとか、税関を通り抜けた(って別に悪いことしてへん)ベトナムは社会主義なので今まで訪れた牧歌的な税関のムードと違って、緊迫感が漂っていた。
そういえば旅客機着陸前に空港に戦闘ヘリが駐機してるのがみえた。ホーチミンの空港は軍民共用なのだ。そういや、地対空機関砲もおいてあった。我々の旅客機に向かって発砲しないだろうかとあほな心配もしたぐらいである。
到着したのは夕方だったので外が暗くなってきた。はやくしないと、治安が悪くなるような気がして、急いでホテルを探すことにする。我々はうら若き乙女なのだから(私は男です)。タクシーを選んでホテルまで載せてもらう。タクシーの運転手も人相のよさそうな兄ちゃんを選んだ。でもなんか怪しいようにも見えるし・・・・神経過敏になっていた。
タクシーの兄さんはじつは良い人で(←実はって失礼)空き部屋のあるホテルを探してくれた。探してくれる手間代を払おうとしたら「いいよ!サービスです」と断られた。なんやええひとやん!最終的に「HONG
KONG」ホテルと言うところに泊まった。名前は怪しいが普通のホテルだ。
銀行が休みでUSドルからベトナムドンに両替できない。旧正月で多くの行政機関も休み。ちなみにベトナムの正月はテトというらしい。両替がなかなかできなかったので朝食抜き、はらへったあ・・・・・・
次の目的地ハノイにいくためにチケットを買いに行く。ちなみにハノイまでは飛行機でいくのではなく列車で行くことにした。夜行列車っておもしろそうだ。サイゴン駅でチケットを買うことにする。
レンタルサイクルでサイゴン駅を目指したのだが、正確な場所がわからない・・・・しかも私の自転車は故障していてスピードがでない。こぐのに異常に力がいるのだ。Sさんに遅れて、また迷惑をかけてしまった、とほほ・・・(死語)
なんとかチケットを買えたが、壊れた自転車のせいでふらふら・・・・ホテルに帰って昼寝した。そのあと街を散歩した。アオザイ(民族衣装)を着て、スーパーカブにまたがる女性が多い。正月だからだろう。アオザイのきれいなお姉さんを見て眼が輝いた私を、Sさんはあきれた顔で見ていた。
見慣れた中古のバスが走ってきた。京都の市バスだ。行き先は四条河原町って京都走ってるときと同じやん。思わず顔がほころぶ。オレンジジュースとビスケットを買ったが、値段が高い。日本とあんまりかわらんやん。まあ都会だししょうがないか・・・・
今日も銀行が休みだ。テト(正月)だからしかたないねこりゃ・・・・ホテルの部屋にいると「こんこん・・・」っていう竹を打ち鳴らす音が聞こえてきた。窓から顔を出すとィ少年が竹の棒を打ち鳴らして歩いている。なんや?と思っていたがあとで調べてみるとpho(うどんみたいなもの)を出前する少年だったらしい。
歩いて博物館を見に行くことにしたが、さすが正月!家族ずれが多すぎる。博物館前は長蛇の列だ。入館はあきらめた。近くに売っていた緑色のジュースを買って飲む。ナイロン袋にストローがついた妙な飲み物だ。見た目はグリーンティーのようでおいしそうだったが・・・・あんまりおいしくなかった。なんか雑草をジュースにしたような味だ。青汁ほどくせはないけどね。でも健康によさそうだった。
いったんホテルに戻って昼寝した。それからまた散歩に出かけた。ホーチミン市はあまり大きな街ではないらしい。ハノイ市はどれくらいの街なんだろうか・・・・・。街には二人乗りや三人乗り、4人乗り(!)のバイクが走っている。家族や恋人同士であいのりがはやりらしい。カフェで夕食を取ってパイナップルジュースを飲んだ。これは草ジュースと違っておいしかった。
サイゴン駅から、寝台列車に乗る日だ。夜出発の列車に載るのだが、ホテルのチェックアウトは昼に済ませた。駅についてからボーっとしていると、いろいろな人が話し掛けてきた。まずはおばちゃんが話し掛けてきた。私たちはほとんどベトナム語はわからないのだが、なんとな話している内容を推測した。おばちゃんはこちらがわからなくてもそんなことはおかまいなく話してくる。この姿勢は我々日本人も見習うべきだ。日本に来ている外国人観光客に、びくびくしているのはこっけいだ。どうどうと母国語で話し掛ければいい。英語などで話すのは、あくまでもサービス(?)でいいと思う。
おばちゃんは、どうやらSさんが、「自分の知り合いに似てたから、思わず声をかけちゃったの、わははあ!」ってなことを言っていた(と推測)我々が日本人だと聞いて、「へえ、日本からきたん?遠いところからよおきたねえ」(推測)といっておられた。日本語を勉強しているという学生風にお兄さんが話し掛けてきたりして、あきない、列車待ち時間だった。
列車に乗り込むと、日本の寝台列車とおなじく、2段ベッドが向かい合わせになったような、4人コンポートメントに案内された。同室の人たちは、女性一人と、男性二人だった。女性のほうは、お姉さんらしき二人の女性が列車に乗り込んで送り出していた。きっと姉妹なんだろう。男性は、ひげのナイスミドルとちょっと頭のはげた体格のいい男性だ。
我々はベトナム語がほとんどわからないので、同席するのは少し不安だが、それはベトナムのひとにしてみれば、我々のような得体の知れない、外国人と同席ってのは不安に思っていたに違いない。ともあれ、列車が動き出した・・・・
寝台列車での旅はつづくSさんはダナンで降りていった。「Sさん、いってらっしゃい!」このあとのベトナム旅行は私一人で行くことになる。
2月25日
いよいよ、今日の昼にはハノイに到着するはずだ。同室の女性は、ハノイの少し前で降りていった。さようならをいえなかったので、手をふって送り出した。やはり、ベトナム語を勉強しとけばよかった。ひげのナイスミドルは軍人であることがわかった。ふとしたところで軍の帽子を持っていることがわかったから。
寝台列車の旅では、弁当がもらえるのですが、外国人の私用の弁当だけ、ベトナム人用とは違うものだった。おかずの内容は同じようなものなのだが、微妙におかずのレイアウトが違う。これでは弁当を食べるたび、私が外国人だと痛感させられた。おかずの内容は焼き豚だとかおでんみたいなものとか、日本人にも違和感なく食べられた。ただ、焼き豚の表面には豚の皮がついたままで、毛もちょっと生えているので初心者には食べられないかも。
ハノイについに着いた。長かった列車の旅も終わりだ。同室の人たちとお別れをした。駅に着いたはいいが、私は地図を持っていなかったので、どこに行ったらいいのかわからない。地図ぐらい用意しろよ俺!
仕方がないので欧米人旅行客の後をつけた。彼らなら安い宿を知ってるはずだ。欧米人について行ってチャンティー通りというところに行こうとしたが、道に迷った。ブラブラ歩いていると、VIETMY HOTELというホテルがあった。LE DUAN通りというところだ。ふつうの小さなビジネスホテルって感じで安そうなので入ってみることにした。
中に入ると、フロントには母娘(?)の二人が迎えてくれた。とりあえず部屋を見せてもらう。それで一晩いくらと聞くと15jということだった。格安ってわけじゃないけど、もうホテルを探し回るのはいやだったので泊まることにした。
久しぶりにシャワーを浴びる。そう、寝台列車にはシャワーはないのだ。ちょうどお昼頃だったので、フロントの女の子に聞いて、「安く昼御飯を食べられるとこってない?しかも地元の人のいくとこ」を教えてもらう。ホテルの南の通りにそんなところがあると聞いたので早速行ってみることに。
そこでは、多くの店が並んでいて、にぎわっていた。まさにハノイっこの胃袋はここで満たせって感じだ。ベトナム語はわからないので(勉強していけよ、俺)英語で店の人に語りかける。店のおばちゃんは「ハア?なにいっとんねんこいつ」という感じでにらんでくる。さすがは地元の人しかいかない場所だ。これを期待してたのよ。フォーっていう麺類を頼んだ。めちゃうま!でも1ッパイ8000ドン(80円くらい)と少し高い。
いったんホテルに帰ったが、次は飛行機の予約をしなければいけない。バンコクに28日に行ってYさんと合流するためだ。ホテルの女性従業員に聞いてベトナム航空に行った。チケットをとるのにカウンターに並ぶのだが、順番抜かしなど当然。後ろから順番を抜かしてくる人を両手でブロックしながらチケット予約。こうしなければいつまでたってもチケットにありつけないのだ(とほほ・・)苦労してチケットをとったが28日の便は満席のために、27日になってしまった。ベトナム滞在が1日減ってしまったがいたしかたあるまい。
もう一度ホテルに戻って、女性従業員にお礼を言って、無事飛行機が予約できたことを告げた。時間があるので買い物に行こうと思う。ハノイ駅の近くまで歩いていった。そこには軍放出品ショップが建ち並んでいた。カーキ色のグッズが狭い店に並んでいる。なぜかハノイ市民は軍用品でおしゃれしている人が多い。軍人ではなく一般市民のはずなんだが・・・多くの男性がかぶっているサファリ帽(紙でできている!)とジャンパーを買った。ハノイは結構冷え込む季節もあるのでジャンパーも必要なのだ。日本で人気(当時)のMA1アメリカ空軍フライトジャケットも売っていた。
サファリ帽とジャンパーを装備して歩くと俺もハノイ市民!誰も俺が日本人だとは気づくまい(たぶん)。そのままゆうゆうと町を闊歩して、今度はデパートぽいところにきた。ちょっと薄暗い店内のガラスケース内にいろんなものが売っている。爪切りからカメラまでなんでもござれだ。ソニーのウォークマンが420000ドンで売っていた。
ハノイの町並みは非常に落ち着いていて、渋さすら感じさせた。ここは社会主義国家なんだと再認識させられた。
ホテルのフロントでは、女の子の従業員がミニテトリン(テトリスの電子ゲーム)を必死にやっている。社会主義国家では電子ゲームは「労働を阻害する」とかいって取り締まられないのか?もともとテトリスは旧ソ連の技術者が作ったゲームだったと思う、自由主義国家にテトリスをはやらせて、自由経済の労働者の生産性を奪うのが目的というとんでもない冗談があったんだが・・・・・
今日はホアンキエム湖に来た。湖と言っても結構狭く、地味なスポットだ。でも湖の周りにはベンチが並んでいてハノイっこのデートスポットになっている。歩いていると、物売りの女の子(13歳)が英語で話しかけてきた。最初はものを売りに来たのだが、私が買わないよというと、あとは商売に関係ない話をした。小さな女の子と話すのも新鮮な感じでいい(私はロリコンではないよ)
ロシア人も観光に来ていた。ロシアとベトナムは結構強いつながりがあるようだ。ロシア語はわからないので英語で話した。ほかには韓国人も観光に来ているようだ。しかしベトナム人は韓国人が苦手なようだった。ベトナム戦争の時に韓国軍の勇猛果敢な戦いぶりを見せつけられたので、いまだにそのいやなイメージが残っているということだ。幸いにも日本人にはそんなに悪い印象はないということだった。
それにしても、出会った人々すべてが英語に堪能なのは驚いた。13歳の女の子も英語が流ちょうだったし・・・・・我々日本人は長年英語を習っているのに、あまりはなせないなんて、恥ずかしいよなあ。そのあと日本人とも出会った、ハノイに来てから日本人は見かけなかったので、正直驚いた。日本では公務員をしているという彼(たぶん24歳くらい)は日本語しか話せないので不安だったそうだ、私に同行してくれと泣きついてきた(正直ちょっとこまったが・・・・)
物売りの少女に彼の行きたい観光スポットのことを聞いたらいろいろと教えてくれた。日本人の彼は感心して「よく現地の子供と仲良くなれたなあ」と言っていた。私は「少しの英語と度胸があれば友達になれるで」と言った。やっぱり英語は便利。
日本人の彼の買い物をつきあったあと、あとはお互い自分の旅を続けることにした。またねえ!
夕食をどこで食べようか考えてたんですが、たまには豪華な食事をしようということにした。インドシナレストランというところで食べたのだがこれがうまい!っていうか最近屋台でばっかり食事をしてたんよねえこれが・・・・20日ぶりにまともなレストランで食べました(爆)。屋台も屋台の味のよさがあるが、レストランもたまにはええわあ。
食事のあとアクセサリー屋をのぞいた。銀製品がめちゃ安ですごくいい!腕輪を買ったよ。非常に細かい細工がされている腕輪で、動物が生き生きと掘られている「生命の腕輪(勝手に呼んでいる)」を購入。その後物売りの少女のところに戻ってベトナム語会話本とハノイの地図を買った。
ハノイからバンコクへひとっ飛び!Viet My Hotelの皆さんとお別れした。日本に帰ってからきっと手紙を出すよ!グエンちゃん(かわいい女の子)。
使った飛行機会社はベトナム航空だった。この飛行機のスチュワーデスさんはなんとアオザイ(ベトナム女性の晴れ着)を着ている!美人が多いので楽しいフライトとなった。
私は割と飛行機の前の方の席だったのだが、なんとコックピットと客席のしきりがない!コックピット丸見え!!!ハイジャックとかされたらどうすんのだ?しかも子供客が喜んでコックピットを凝視しているとスチュワーデスさんがその子をだっこしてコックピットに招き入れてお菓子をあげていた。
日本では考えられない牧歌的な飛行機だ。
タイ国に入る、バンコクの空港から、Yさんと待ち合わせで選んだShanti Lodge Taveeっていうゲストハウスに向かう、とはいってもどこにあるかしらないので(ヲイ)三輪タクシーの運転手に行ってもらう。でもそんなとこ知らないっていわれちゃった。仕方がないので別の言い方を告げる。「国立図書館」の近くまで行ってください。
国立図書館の近くでタクシーを降り、ゲストハウスを探す。以外とあっさりとゲストハウス発見。Sさんが前もって情報を仕入れてくれていたのだが、そこには日本人はおらず、欧米人のたまり場的民宿だった。海外に来てるという実感がわくいい感じのところ。
日本人は珍しいって感じでみなさんとうち解けるに時間がかかったが、私は無理にうち解けるのが好きだったりする。東南アジアに来ている欧米の方々は比較的日本にも興味をもっていたのでよかった。
待ち合わせをしているYさんがまだ来ない。宿の主人にも聞いたが「そんな名前の女性は来てないよ」っていうことだった。宿の主人は太ったおっちゃんで桂ざこばに似てる。ムエタイもやっているってことだった。確かに強そうだ。私も空手やってんねんっていうと「うそだろ、その細い体で・・・」っていわれちゃいました。
結局前日はYさんとは合流できず・・・今日はどうなるのか?昼になった。まだ彼女はこない・・・・おやつの時間・・・・まだこない・・・・・夕方・・・・・まだこない。まるで恋人を待つような気分やね(妄想)。
今日ももうこないんじゃないか?いや私が場所を間違えたのではないのか?不安が頭の中をよぎる。その日の夜なにか聞き覚えがある声が表でした(ような気がした・・・)。
それは私の気のせいではなかった。流暢な英語で宿の主人(桂ざこば似)に話すYさんの姿がそこにはあった!
合流後話すとどうやら待ち合わせ場所はここではなかったらしい。シャンティロッジというゲストハウスだったのだ。TAVEEというのはあくまでも第二候補の宿屋だった。それを私は勘違いで「シャンティロッジTAVEE」というひとつの宿屋があると勘違いしていたのだ!なんてこったい。でも再開できたのは奇跡的ななにかです(別に愛の力じゃないよ(苦笑))彼女とはよき友達だからです。
つづく
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このコーナーは1996年に行ってきた旅行の様子を追記している。実際に2月に書いていないリアルタイムの日記ではないのでそのへんのとこよろしく!